Your friend
しわしわの骨張った手で一度だけ、祖母は私を撫でた。

ホワイトレイン

耳障りな断続音。雨なのか、雨なのだろう。
聖は一人でそんなことを考えながら、
湿気で曇った窓ガラスを人差し指でなぞった。
雨は嫌いだ。余計なことばかり思い出させて気分を滅入らせる。
まだ自分にとっていい思い出であったと、割り切ることは出来ていない。
・・・・・・傷は、薄れた。そんな風に割り切る必要もないだろう。
窓ガラスから指を離し、聖は流しへと向かった。
携帯電話のテレビをつけて確認したところによると、都市部一帯に大雨・洪水警報。
親から一回電話があって、学校は休校とのこと。
それなのに、ここまで来てしまった自分は何なんだろうか。
ぼそぼそ口に出して呟いていたかもしれないが、ツッコミを入れる人間もいない。
聖は気にせず、少し高い位置にある棚からウヴァの袋を取り出すと、
赤いケトルを火にかけた。
シュンシュンと、水蒸気が奏でる独特の音を聞きながら湯気をぼーっと眺める。
忘我する心地よさというか、
甘い感覚が体を支配していくのを感じながらケトルに手を伸ばしたが、
それが悪かった。
軋むような跳ねる痛みが指先を掠める。
「−−−−−−っ」
聖は思わず手を離す。
右手の人差し指は、熱さを伴って赤くなっていた。
「・・・・・・」
少し眉根を寄せながら、ゆっくりと指を口に含む。
自由なもう片方の手で、器用にポットへ湯を注いだ。
こぽこぽという緊張感のない音に、
自分は怪我をしたというのにいい気なものだと意味の分からない苛立ちを覚え、
もういいだろうと指を口から離した。
透明な糸が引いたが大して気にせずに制服の腹の部分で拭う。
ここに蓉子がいたら大目玉だろうな、と思いながら、彼女はウヴァが
あまり好きではないのを思い出した。
・・・・・・おいしいのに。
自分は好みが人と違うのだとたまに自覚する。
マスタードタラモサンド然り。
人の好みも然り。
いや、彼女は今は人気がないというか遠巻きに見られているだけで、
学年が上がれば爆発的(特に下級生中心に)人気が出るに違いない。
間違いない!
などど言ってから下手な真似はするものではないと結論付けて、
一人分のティーセットをテーブルに置こうとしたところで、
はたと気づいた。
「あれ・・・・・・?」
そこに居たのはこの学園ではあまり普遍的とは言いがたい彼女。
ふくざわゆみ、福沢祐巳、fukuzawayumi?
疑問符など無意味で無価値。
これが自分の幻覚でないのなら、彼女はここに居るのだから。
聖はいつもの軽薄な笑みを浮かべて大声を出す。
「あっれーーーーーー?祐巳ちゃんなんでいるの?」
祐巳は聖の姿を見ると、すぐさま表情を驚きの形に変えた。
「ど、どどどどどどっ」
おーいいねぇ。いつもの工事現場の音。などと一人で満足してから、
聖は祐巳が落ち着くのをゆっくりと待った。
テーブルの上のポットから、ティーカップに紅茶を淹れ、
椅子に座って、一口含んだところでやっと、祐巳が大きく息を吐き出す音がした。
「落ち着いた?」
祐巳は少し渋い顔をしながら、手でぱたぱたと顔を煽ぐ。
「・・・・・・どうして白薔薇様がいらっしゃるんですか」
聞くと聖は不満そうに形の良い唇を尖らせ呻いた。
「まださっきの質問に答えてもらってない。あと白薔薇様禁止。
せめて聖って呼んでね」
「はあ」
祐巳は一拍、考える仕草をしてから口を開いた。
「休校、って聞くのが遅くて。ここで雨宿りしてたんですけど」
あまり自分と変わらない理由だ。
聖は少しつまらなかったが、彼女が独りでここに残っていた理由が分からなかった。
自分にも、大して、理由はない、が。

「聖さま?」
祐巳の声で聖は我に返った。
いったいどのくらいぼーっとしていたのかも分からない。
悪い白昼夢でも見たのか、のどが嫌な感じに渇いていたので
紅茶を口に含んだが、もう冷めていた。
「あっ、と。何?祐巳ちゃん」
「聖さまはどうしてここにいるんですか?」
なんでだったっけ。
祐巳に訊いておいて、自分が忘れてしまっていたのではばつが悪いので、
当たり障りのない答えを返しておいた。
「祐巳ちゃんと同じだよ。大して理由はないし」
答えると、聖は祐巳が自分の顔を凝視していることに気が付いた。
少し茶色がかった瞳に情けない自分の顔が映りこんでいる。
「なに・・・・・・?」
祐巳は少し身を引いて、首を傾げた。
「いえ、聖さまが寂しそうに見えたので」
彼女は時たま、こんなことを言う。
自分でも分かっていなかった感情の揺らぎを指摘されて、
更に揺らぐ。
聖は頭が軽く痛むのに気づいて、手を当てた。
「・・・・・・さみ、しい?」
だれだっけ、だれだっけ。
さびしいという言葉より、さみしいという言葉が好きだった人。
雨、温室。それだけじゃない。自分が雨を嫌いな理由。
ふわり。
祐巳の手が、聖の頭を撫でた。
『聖ちゃん・・・・・・』
ああそうだ。おばあちゃんだ。
聖は泣いていた。
急に泣き出した聖を見て、祐巳は大きく目を見開いた。
聖は泣いたまま祐巳のほうへ顔を向け、顔をくしゃくしゃにしながら
叫んだ。
「私が・・・・・・私が殺したんだ!おばあちゃんは止めたのに、それなのに!!!」
聖がここまで感情を剥き出しにして叫んでいるのを見たことが無かった祐巳は、
一瞬、一瞬だけ怯んだが、聖のだらりと投げだされた手をとって言った。
「話してくれますか?」

その日も暗い日だった。
空気もじめじめしていて、病気でずっと寝たきりになっていた祖母と
一緒に居るなんて耐え切れずに外に遊びに行こうとしたとき、
祖母が今までに見たことのない顔で怒ったのだ。
「白い、白い雨が降る・・・・・・!聖ちゃん、外に行っちゃ駄目!」
寝たきりの老人の体のどこにこんな力が残っていたのだろう。
祖母は這って縁側の聖のところまで行くと、物凄い力で聖の腕を掴んだのだ。
当然、聖はびっくりして呻いた。
「い、いたい、おばあちゃん痛いよ・・・・・・!」
怖かったというのもあった。聖はその手を振り払うと、外に向かって駆け出した。
一度だけ、ちらりと後ろを見ると、祖母が手を伸ばしたままずっと
聖を見続けているのが見て取れた。
恐怖と疑問と少しの苛立ち。聖が二度と後ろを振り返ることはなく、
気まずさもあって、すぐ家に帰ることもしなかった。
何かもやもやしたものもあって友達とも遊ぶ気にはなれず、
近くの崖で遠くを眺めていたら、足を滑らせた。
一瞬の浮遊感の後、衝撃。
まだ幼い聖は泣いて、泣いて、泣きじゃくった。
崖の下の岩棚はちょうど死角になっていて、人の目が届かない。
結果人が来るには泣き続けるか叫ぶしか効果がなく、
聖はそれをし続けた。
そして涙も声もかれ果てたころ、さーっという音と共に、
白い雨が降って来た。
人間は、自分の常識の範囲外の出来事が起こったらまず何をするのだろうか。
「あは、ははは、白い、白いよー!変なのー!」
聖の場合は、笑った。
祖母の言ったことが真実だったのを思い返し、少し申し訳なく思ったが、
聖はずっと笑い続けた。
そして笑い声を聞きつけた近所の人に保護され、母親の腕に包まれてもなお、
聖は笑い続けた。
しかし母親はそんな聖の様子を気味悪がるようなこともしなかった。
できなかった、というほうが正しかったのかもしれない。
母親は泣いていたのだから。
「おかあ、さん・・・・・・?」
母親は何も言わずに聖の手を引いて家に着くと、ふすまをゆっくりと開けた。
そこには祖母が横たわっていた。
ひゅーひゅーと擦れた音を咽から漏らしていた。
聖はいつものように寝ているだけだと大して考えもせずに、
祖母の元へと寄っていく。
「おばあちゃん、だいじょうぶ?」
聖の声を聞いた祖母は微かな笑みを浮かべて、聖に座るように促した。
そして、頭に手を置いた。
一度も祖母にそんなことをされたことがなかった聖は、びくりと身を震わせたが、
祖母が少し寂しそうな顔をするので、されるがままにした。
「聖ちゃん、ごめんねー。お祖母ちゃん、いつも怖かったでしょ?」
聖は否定も肯定もしなかった。
祖母が事あるごとに聖を叱り、あまり好きではなかったのも確かであったし、
それをそのまま口にして祖母を悲しませることは出来ないという分別も、
聖にはあったからだ。
しかし、祖母は分かっていたのだろう。
何も言わずに聖の頭を撫で続け、一言だけ、
「聖ちゃんが無事でよかった。本当に、ほんとうに。・・・・・・」
祖母の手が止まり、聖の滑らかな毛髪に沿って、布団へ滑り落ちた。
一面、白。
白、白、白。
いちめんなのはな、という詩がちらりと頭の中を掠めたが、この視界は黄色ではない。
いちめんしらゆりだった。
聖はそれまで、それらを認識していなかったのだ。
母と同じように、しなかったのではなく、できなかったのかもしれない。
子供ながらに、恐ろしい何かを感じ取っていたのかもしれない。
他の白いものたち。
周りの大人たちの青ざめた顔、これは違う、青だ。
えっと天井?照明・・・・・・、おばあちゃんの白い着物、血の気のない、
白い顔。
まだ幼い聖は、状況が全く理解できずに、しきりに母の袖を引いて問うた。
「ねーねーおばあちゃん、どうしたのー?おねんねー?
おはながいっぱいだよー?」
聖の言葉を聞いた母親は耐え切れなくなったのだろう。
いままでぽろぽろと頬に落としていた涙を、滝のように溢れさせた。
聖は再び疑問に思う。
何故母は泣いているのだろう。
そんなに泣いていたら、自分まで泣きたくなってくるではないか。
聖は訳も分からず母と共に慟哭し、
祖母の死に気づいたのは、それから一ヵ月後だった。

「なんで泣いてるの?」
聖は祐巳に訊く。語った聖よりも、祐巳は大量の涙を流していた。
しかし瞳はいつもの光を宿したままだ。
「・・・・・・行きましょう」
「へ?」
唐突に訳の分からないことを言われて、聖は間の抜けた声を出す。
そうしている間にも、祐巳はあのときの祖母と同じような力で聖の腕を引き、
扉を開いていた。
「ちょ、ちょっと祐巳ちゃん?」
祐巳は何も答えない。ただ玄関に向かって歩くのみ。
もちろん雨はやんでなどいない。
猛烈な雨が降り注いでいる。
それなのに、二人は外に出た。
バケツをひっくり返したような雨だ。
聖は妙に客観的な視点で今の状況を眺めていた。
掴まれていた腕は放され、今は手を握られている。
祐巳のリボンは解け、水に流れている。
「・・・・・・す、か」
「え?」
「今も白い雨は、降っていますか!?」
驚いた。彼女にもこんな大声が出せるのか。
しかし。
「白い雨って・・・・・・。今はただの土砂ぶ」
「死にませんよ」
祐巳の目は、聖を捉えて離さなかった。
聖は思わず目をそらしそうになるが、済んでの所で踏みとどまる。
「私は、死にません。例え白い雨が降ったとしても、絶対に」
聖と祐巳を繋ぐ暖かな鎖が強さを増す。
聖は頭がくらくらした。
普遍的じゃないどころの話じゃない。
彼女はおかしい。偉大すぎる。
聖はくしゃりと顔を歪め、繋いだままの手を掲げた。
「降参」
あとがき
よっす!オラ恥ずい。
長!長いよこれ!お久し振りです。激しく久し振りに書きました。
いつも大抵主観的に書いてるんですが、客観的に書いてみました。
相変わらず意味が分からないw
御感想いただけたら嬉しいですー。
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